2015年6月8日月曜日

「背反」と「排反」の違い

 数学の答案に「~は背反である」と書いて、「”背”の字が違う。こんな日本語はない」と言われたことがある。そんなことはあるめえと思ったが、のち考えてみると背反と排反の使い分けというのはよくわからない。どういうことなのだろう。

 排反、という表現は、普通数学でしか使われない。集合論において、集合Aと集合Bの要素が全く異なるときに、AとBは排反である、というのである。なんのこっちゃという感じだが、小学校の頃習ったであろうベン図を思い浮かべてもらいたい。ふたつの丸が完全に離れているのが「排反である状態」である。(画像はhttp://batmitzvah.blog136.fc2.com/blog-entry-691.htmlより引用。)
それに対し、背反というのはどういうことだろうか。weblio辞書から引用したい。(以下引用)


はい はん [0] 【背反・悖反】

( 名 ) スル
相反すること。相いれないこと。 「二律-」 「その言語と相ひ-するものは/西国立志編 正直
命令などにそむくこと。 「或は-するあらん/花柳春話 純一
                                             (引用ここまで)
 やはり、なんのこっちゃという感じである。が、少なくとも②の意味は排反とカブるべくもない。問題は①の方だろう。
 相反すること、相いれないこと、という言葉を聞くと、「矛盾」という言葉が思い浮かぶ。また、西国立志編の例が引かれているが、これは矛盾まで行かず「違う(たがう)」というほどの意味だろう。

 難しい。まず、「違う」と「矛盾する」の違いを追求しなくてはならない。もうこの文章の時点で何がなんだかという感じだが、排反も集合論の概念であるし、せっかくだからここでも(エセ)集合論的に考えてみたいと思う。
 違う(ちがう)、というのは、AとBに含まれる要素がひとつでも同じでなければよい。つまり、上の図のように円が完全に離れていなくても、円がちょっとでもずれていたり、あるいはひとつの円がもうひとつを含むような状態であれば、AとBは違う、と言える。
 違う(たがう)にしても同じことで、たとえばAと言われてBをする、というときに、Aに加え余計なことをやったり、Aと言われたすべてをやらなかったりすれば、Aに違う、ということになるのである。
 これに対し、矛盾はどうか。これもweblio辞書から引用したい。(以下引用)

む じゅん [0] 【矛盾】

( 名 ) スル
(ほこ)と盾(たて)ぼうじゅん
つじつまが合わないこと。物事道理一貫しないこと。撞着(どうちやく)。 「論旨の-をつく」 「前後-した意見」 〔昔,(そ)の国に矛と盾を売る者がおり,この矛はどんな盾をも貫き,この盾はどんな矛も通さないと言ったところ,それを聞いた人にその矛でその盾を突いてみよと言われ困ったという「韓非子 難一」の故事から〕
〘論〙 〔contradiction
論理学で,二つの命題相互に一方が真であれば他方は偽であり,一方が偽であれば他方は真であるという関係にあること。例えば「 A である」と「 A でない」。また,そうした命題連言命題例えば「 A でありかつ A でない」。「反対(contrary)」とは区別される。
弁証法で,相互に排除対立しあいながら連関しあう二契機の間の関係。
武器をとって戦うこと。敵対すること。 「 -ニ及ブ/日葡
                                    (引用終わり)

 ここで取り上げられそうなのは③のアである。②がよくこうした文脈で使われる「矛盾」であるが、いかんせん定義があいまいであり、集合論的に定義しようがなさそうである。が、これについて言えることがあるとすれば、「A”と”Bが違う」という表現に対して、「A”かつ”Bは矛盾である」という表現になる、ということである。つまり、単にAとBというふたつをひとつずつ取り上げるのではなく、AとBが両立しているという想定のもと、両立することはありえない、ということを表現するのが「矛盾」ということばである、ということである。その点で「違う」ということばとも異なるし、「排反」とも異なる。というのは、「排反」の場合、「AとBとは完全に食い違う」ということが言いたいだけであり、「だからAとBは両立しない」ということまでを言おうとするものではないからである。

 ……、ふう、疲れた。

 ③のアもまた、上の図の状態ではない。上の図には、AとB、それに「AでもBでもない部分」があって、それらにより全体集合Uが形成されるように書かれている。③のアによると、「矛盾」とは「AかつノットA」であり、上の図で言う「AかつB」が、これでは矛盾とは呼べないことがわかるだろう。矛盾とは、「Aかつ(Bかつ「AでもBでもない部分」)」のことを指すのである。
 
 しかし、相反するも相いれないも、(数学用語としてでなく)日本語として使っている場合あまりにも定義しづらい。もしこれらを「矛盾」と同一視してよいとすれば、「違う(たがう)」も「矛盾」も「排反」とは違うことがベン図から集合論的に示せたから、やったね!と言って終われる。

 ……、終わりたかったのだが、「二律背反」という言葉がラスボスとして立ちはだかるのである。

 「二律背反」とは、正命題と反命題が同時に成り立つ、という現象を表す。その点で、単に「矛盾する」というのとは違うらしい。ふええ。
 二律背反という言葉は、論理学の言葉であるがゆえに排反ともっとも紛らわしい位置にある。なおかつ、これまで懇切丁寧に説明してきた「矛盾」とも違うというのだから、新たな説明が必要になってしまうわけだ。

 ここからは、あまりベン図は関係ない。しかし、視点は単純で済む。問題は、「”二律背反”のなにが”背反”なのか」という点である。
 背反とは、文字どおりに見れば「そむくこと」である。だからこそ「違う」や「矛盾」の意味が出てくるのだが、ここで二律背反という言葉を展開してみると、「二律が(何かに)そむく」ということになるのである。さあ、なんだ。
 二律背反とは、正命題と反命題が同時に成立することであった。これは、普通に考えておかしなことである。おかしなことなのに、成り立ってしまっている(これが二律背反と矛盾の違いでもあるのだが)。これは「自然の流れ」にそむいているのである。もっと正確に言えば、「論理的な自然さにそむいている」ということになる。だからこそ、二律背反の「背」は「背」でよいのである。



 あ~、つかれた。なんか不首尾に終わってしまった気もするが、少しでも読者の皆様のお役に立てたら幸いである。

2015年5月26日火曜日

結局、意識高い系とは何なのか?→「大きな物語」にまつわる脱線

 意識高い系、という言葉を、よく耳にするようになった。人物に限らず、ある行為、ブランドといったものにも、「あれって意識高い系よね」という使い方がなされる。しかし、その実態はあやふやの極みで、ただ僻みの対象をあげつらうために使われているだけな感もある。

 しかし、どの場面においても、意識高い系という言葉は、馬鹿にするニュアンスで使われていることが多い。それは、実際の行動が伴っていない、自分を高く見せようとし過ぎ、といった馬鹿にされてしかるべきシチュエーションも多々あるのだが、そうでない場面でも、いわば「出る杭を打つ」的に意識高い系という言葉は使われるのである。

 出る杭は打たれる、というのは、日本の横並び社会を象徴する言葉としてよく使われる言葉である。意識高い系というレッテル貼りの一端に、こうした精神が働いていることは明白であろう。しかし、そればかりではない気もする。つまり、実際に叩かれてしかるべき場合、出る杭が打たれる場合の他に、もうひとつ叩かれるパターンがある気がするのだ。

 そもそも、意識高い系が叩かれるのはなぜか。それは、意識高い系が持つ「正の感覚」に対して違和感を感じる人間が多いからではないか。「正の感覚」というのは、具体的に言えば、彼ら「意識高い系」の場合は、人間性の向上、それによって得られる充実した人生といった、「意識高い系」の行動がもたらすであろう一連の結果を肯定し、ひいては「意識高い系」の行動のいちいちを(かなり無邪気に)肯定するような感覚である。つまり、「意識高い系」の行動、およびそれの織りなす人生は、それ自体がひとつの「大きな物語」である、と言うこともできるのではないか。そして、そうした行為が叩かれるのは、その「大きな物語」に対する抗議と取ることができるのではないか。

 とすると、このパターンは3つ目のパターンというより、2つ目の「出る杭が打たれる」パターンのバリエーションのひとつだということができそうだ。

 一般に、ポストモダンとしての現代=近代を批判した上で現代が成り立ったとした場合の現代においては、「大きな物語」は失われ、「小さな物語」のみが生き残るのだ、ということがよく言われる。ざっくり定義するとすれば、「大きな物語」は万人にあてはまる「正しい」ことのなりゆき、そして、「小さな物語」は個々人が自分だけに持つ「正しい」なりゆきのことである。
 では、「意識高い系」の行動は、果たしてどちらに分類できるのだろうか。私は「大きな物語」に分類するのが適当であるように思われる。その根拠は、「意識高い系」の持つ「押しつけがましさ」である。一見彼らは独自性を主張しているように思われるかもしれない。しかし、実際には同一の「それっぽさ」を追いかけているだけであり、それを疑おうともしないのである。だからこそしばしば「上から目線である」と顰蹙を買う羽目になるのであり、そうした物語を支持しない人々から、十把一絡げにされて叩かれるわけである。

 以下、暴走脱線。(まったくの素人見解なのであしからず。)
 しかし、ことをもっと根本的に考えてみると、「小さな物語」というのは果たして存在しうるのだろうか?「大きな物語」にせよ「小さな物語」にせよ、「正しさ」を主張しているという点では変わりがない。そして、「正しさ」とは他人に承認されて初めて存在しうる概念である。とすると、少なくとも二者以上がその「正しさ」を共有している必要があり、それはもはや「大きな物語」のバリエーションのひとつにすぎないのではないか?反社会的な物語を掲げる分には「小さな物語」というのもあり得るが、家族愛や隣人愛といった物語はかなり普遍的であり、「小さい」とはとても思えない。国家全体を覆い尽くす単一の物語、という意味での「大きな物語」は確かに解体されたように見える、が、四散した「大きな物語」が「中くらいの物語」となって、それぞれ都合のよい場で共有されている、そして、もとはひとつの物語なのでお互いに理解できるから、それぞれの共同体が緩やかに連帯している、というのが現状なのではないか。

2015年5月22日金曜日

ぶぶぶる

 さぶい
 こんな季節は
 だれも外に出ないから
 だれも外にいない
 というのは嘘で
 乞食が いる

2015年5月18日月曜日

わんたん

 わんたんスープ
 可及的速やかに飲みたい
 こんな時間に
 おなかを壊したくはない
 あたたかいものが食べたい 飲みたい

2015年5月16日土曜日

ほほを手にあてて

 涙がながれる
 とめどもなく
 なだれる
 とめどもない
 決壊した
 涙腺を
 ほほを
 手にあてて
 深呼吸
 気持ちいい
 風が体の中に入って、笑う
 ははは、
 笑われて
 悲しくて
 また、涙腺決壊

2015年5月14日木曜日

いままでごめんね

 竜が池の中に住んでいた
 近くの池の
 まわりを3周まわると
 ひげから出てきた
 なんのようもないのに
 呼びつけちゃってて
 いままでごめんね

2015年5月12日火曜日

こんな時間になんだとおもってるの

 母親に叱られて
 時計を見たら もう3時
 おやつの時間の
 12時間まえ
 または
 12時間あと