意識高い系、という言葉を、よく耳にするようになった。人物に限らず、ある行為、ブランドといったものにも、「あれって意識高い系よね」という使い方がなされる。しかし、その実態はあやふやの極みで、ただ僻みの対象をあげつらうために使われているだけな感もある。
しかし、どの場面においても、意識高い系という言葉は、馬鹿にするニュアンスで使われていることが多い。それは、実際の行動が伴っていない、自分を高く見せようとし過ぎ、といった馬鹿にされてしかるべきシチュエーションも多々あるのだが、そうでない場面でも、いわば「出る杭を打つ」的に意識高い系という言葉は使われるのである。
出る杭は打たれる、というのは、日本の横並び社会を象徴する言葉としてよく使われる言葉である。意識高い系というレッテル貼りの一端に、こうした精神が働いていることは明白であろう。しかし、そればかりではない気もする。つまり、実際に叩かれてしかるべき場合、出る杭が打たれる場合の他に、もうひとつ叩かれるパターンがある気がするのだ。
そもそも、意識高い系が叩かれるのはなぜか。それは、意識高い系が持つ「正の感覚」に対して違和感を感じる人間が多いからではないか。「正の感覚」というのは、具体的に言えば、彼ら「意識高い系」の場合は、人間性の向上、それによって得られる充実した人生といった、「意識高い系」の行動がもたらすであろう一連の結果を肯定し、ひいては「意識高い系」の行動のいちいちを(かなり無邪気に)肯定するような感覚である。つまり、「意識高い系」の行動、およびそれの織りなす人生は、それ自体がひとつの「大きな物語」である、と言うこともできるのではないか。そして、そうした行為が叩かれるのは、その「大きな物語」に対する抗議と取ることができるのではないか。
とすると、このパターンは3つ目のパターンというより、2つ目の「出る杭が打たれる」パターンのバリエーションのひとつだということができそうだ。
一般に、ポストモダンとしての現代=近代を批判した上で現代が成り立ったとした場合の現代においては、「大きな物語」は失われ、「小さな物語」のみが生き残るのだ、ということがよく言われる。ざっくり定義するとすれば、「大きな物語」は万人にあてはまる「正しい」ことのなりゆき、そして、「小さな物語」は個々人が自分だけに持つ「正しい」なりゆきのことである。
では、「意識高い系」の行動は、果たしてどちらに分類できるのだろうか。私は「大きな物語」に分類するのが適当であるように思われる。その根拠は、「意識高い系」の持つ「押しつけがましさ」である。一見彼らは独自性を主張しているように思われるかもしれない。しかし、実際には同一の「それっぽさ」を追いかけているだけであり、それを疑おうともしないのである。だからこそしばしば「上から目線である」と顰蹙を買う羽目になるのであり、そうした物語を支持しない人々から、十把一絡げにされて叩かれるわけである。
以下、暴走脱線。(まったくの素人見解なのであしからず。)
しかし、ことをもっと根本的に考えてみると、「小さな物語」というのは果たして存在しうるのだろうか?「大きな物語」にせよ「小さな物語」にせよ、「正しさ」を主張しているという点では変わりがない。そして、「正しさ」とは他人に承認されて初めて存在しうる概念である。とすると、少なくとも二者以上がその「正しさ」を共有している必要があり、それはもはや「大きな物語」のバリエーションのひとつにすぎないのではないか?反社会的な物語を掲げる分には「小さな物語」というのもあり得るが、家族愛や隣人愛といった物語はかなり普遍的であり、「小さい」とはとても思えない。国家全体を覆い尽くす単一の物語、という意味での「大きな物語」は確かに解体されたように見える、が、四散した「大きな物語」が「中くらいの物語」となって、それぞれ都合のよい場で共有されている、そして、もとはひとつの物語なのでお互いに理解できるから、それぞれの共同体が緩やかに連帯している、というのが現状なのではないか。
2015年5月26日火曜日
2015年5月22日金曜日
2015年5月18日月曜日
2015年5月16日土曜日
2015年5月14日木曜日
2015年5月12日火曜日
2015年5月5日火曜日
2015年5月1日金曜日
登録:
投稿 (Atom)